【ブログ】恋と愛の違い。すべてに通ずるブッダの考え方から学ぶ。

こんばんは、ファーストメンタルケアの中谷です。
突然ですが、この言葉を知っていますか?
“When you like a flower, you just pluck it. But when you love a flower, you water it daily.”
「好きな花があるとき、人はそれを摘む。本当に好きな花があるとき、人はそれに毎日水を与える」
ーブッダ(古代インドの宗教家)

私は特定の宗教に属しているわけではありませんが、先人たちのいろんな考え方を学ぶと楽しいので、勉強しています。
この言葉の話に戻りますね。皆さまは、どう受け取りましたか?訳し方なども様々あるとは思いますが、私はこんな感じで受け取りました。
好きな花があるとき=好きな人がいるとき
人はそれを摘む=それを求める
すなわち「恋」である。
本当に好きな花があるとき=愛する人や存在がいるとき
人はそれに毎日水を与える=世話をしたり、対話をしたり、相手のことを考えて行動する
すなわち「愛」である。
私自身の思い出を振り返ってみると「恋」をしているときは、至極、自分本位だった気がします。相手に目線が行くというよりかは、自分の心のドキドキ・ワクワクに向いている感じがします。とにかく自分の気持ちをわかってほしくて、嫌われたくなくて…一緒にいる時間の長さや、同じ気持ちを求めたり、共感してほしいと思うことが多かったように思います。
恋=求めること という定義ができます。
それに対して、「愛」。愛というと壮大な感じがしますね、うん。様々な人と深く話したり、その人や存在を沢山知っていくにつれて同じ人は一人としていないことを知ったとき。もっと理解してその人のことを分かってあげたい、応援してあげたい、ケアしてあげたい。その人やその存在に対して、何か自分が役に立てることはないだろうか?と私は思います。
愛を感じるとき、相手の立場にたって想像していることが多いと感じます。
愛=与えること という定義ができます。
「恋愛」というくくりにすると男女関係だけのように思いますが、求めることと与えること自体は、家族関係や、仕事仲間、友人関係など社会生活のいろんな関係性においても、「恋」と「愛」。どちらかに分類できるのではないでしょうか?
◇子どもと親
◇雇用主と働き手
◇長年の友人同士
・・・どれもが、実は「愛」なしでは成り立たないと 私は思うのです。
例えば、
◇子どもと親
親が、子どもに「こうすべきだ」という求める状態が続く限り、子どもは親の理想のために頑張り続ける操り人形になります。その結果「○○しなければ愛されない」という愛着障害が形成される恐れがあり、子どもは本当にやりたかったことや夢をあきらめてしまうことも多くなります。
◇雇用主と働き手
昔は雇用主が立場としてウェイトをしめていましたが、使い捨てのように働き手を遣えば悪評はすぐに広まる時代になりました。業績が伸び続ける会社というのは、どれも永く働き手を大切にしている企業ばかりです。
◇長年の友人同士
様々なきっかけで仲良くなり、お互いが相手に対して「親友」を求め続けるとどうなるか。心のどこかで「親友なのだから」と。友人関係の役割を演じるようになっていたとしたら?それは愛というよりも役割であり、義務的な関係になってしまいます。
求めることばかり(恋)の状態が続けば、そういった関係性はいずれ破綻を迎えます。だからこそ私は、『愛せる存在』を見つけてほしいと思っています。
でも既存の関係や物事に対してむりやり、無理をしてまで、愛そうとはしなくてよいと思います。
「愛さなくてはいけない」
自分に対する○○べき思考は、自分をがんじがらめにしてしまいます。
・愛せる存在が分からない
・どうしたらいいのか分からない
そんな方は、ファーストメンタルケアができるお手伝いがあるかもしれません。今のお気持ちを、うまく話そうとしなくてかまいません。心の内のそのままを、お話にきてみませんか?
P.S.
ちなみにブッダ(ゴータマ・シッダールタ)は超富裕層の出身でした。何不自由のない暮らしをしていたのにも関わらず人を生きる苦しみから解放する悟りを得たいと考えた彼は、なんと29歳のときに妻と息子を城に置いて出家します。
今で言う、家出ですね。この出来事、今から遡ること約2500年前です。出家後はバラモン教の教えに従いながら修行の日々を過ごした、と伝えられています。周りの人々は、出家にびっくりしたでしょうね。…なんだか、今も昔も変わらないような話かも。
でも彼は自分の意志で行動することで、本当に「愛せる存在や愛する目的」を探したのでしょう。
愛せる存在を見つけるためなら、誰のためでもなく自分のために行動しても良い。私はそう思います。
